どうも河野圭祐です。
今回は、【創業】サイボディ誕生物語というテーマでお話をしていきます。
サイボディは山梨県初となる24時間ジムとして誕生したフィットネスクラブで、山梨県出身の当時29歳の僕と親友によって立ち上げられた企業です。
今では僕と言えばフィットネスというイメージが強いと思いますが、実は僕はもともと介護士だったんです。
介護士だった話をすると本当に皆さんに驚かれますね。
サイボディは今では山梨で当たり前の存在となっていますが、誕生までの道のりは「親友との誓いの話」、「不動産会社の女社長に騙された話」、「涙で土下座をした話」などなど、、、
自分でいうのもなんですがたくさんの困難と、たくさんの奇跡のような出来事が詰め込まれた物語があるんです。
サイボディは今では「社会から孤独を無くす」という理念の元に経営を行っていますが、実は最初からカッコいい動機があって起業したわけではありません。
「フィットネスで世界を元気にしたかったから!」「フィットネスをより多くの人に届けたかったあから!」「フィットネスブームがくることを予測していたから!」
カッコいい理由を作るのは簡単ですが、現実にはそんなカッコいい動機なんて全くありませんでした。
全ては現状にもがき苦しんでいた僕と、その親友との友情から始まった物語なんです。
今回はそんなサイボディがどうやって生まれてきたのか、その本当のストーリーをお届けいたします。
二代目次男の物語
僕の父は40代後半から独立して、介護施設を運営する会社の経営者になりました。
だから僕はその会社でいうところの二代目になりますね。
僕は大学卒業後は家業の影響もあって介護の道に進もうと決めていました。
実家の家業につくこともできましたが、なんの実力もないのに親の世話になるのは嫌だったので、大きな介護施設に就職することにしました。
その施設には結果として3年間勤めることになり、排泄介助やお食事介助はもちろん認知症の方のお世話も行い、夜勤は40人近くの方のお世話を2人態勢で行い、何十人もおむつ交換をしてへとへとになっていたのを覚えています。
それでも介護は好きだったので、嫌な気持ちはなく楽しく3年間過ごすことができました。
そして3年間の経験で、国家資格である「介護福祉士」も取得し、家業の事業拡大に伴い戻ることになったんです。
実家の介護事業に戻った僕は、実質トップの立場についていて、新規でオープンしたデイサービスの運営を担当しました。
トップといっても小さな会社だったので、まだ未熟な僕でも任せてもらえたんだと思います。
このデイサービスの新規立ち上げは、わからない事ばかりで何度も挫折しそうになりましたが幸いメンタルの回復力が異常に高かったため、試行錯誤しながらなんとか安定させることができました。
今振り返ってみれば外部の企業に勤めた3年間と、事業の立ち上げを担当したこの頃の経験が今のサイボディの経営に大きく役立てることができていると実感しています。
ここまでの話だけ聞くと二代目として順調に実績を重ねているように見えるかもしれませんが、実は心に大きなモヤモヤを抱えていました。
それは、僕には兄がいてどんなに頑張っても僕がトップに立つことはできなかったからです。
兄のことを悪く言うわけではありませんが、兄には介護経験もありませんでしたが事業を継ぐのは兄でした。
当時は少し悲しい気持ちにもなりましたが、今は僕も子供をもち「まぁ息子はいくつになっても可愛いか」という気持ちで当時の父の気持ちも理解できました。
どんなに頑張っても自分はトップにはなれないし、周りに認めてもらえない。
その心のモヤモヤを感じてしまった僕は、幸せに生きていくことはできませんでした。
みんなに認められたい若者の物語
「自分の力で何か大きなことをしたい!」
20代前半からそんな思いはありましたが、家業での経験の中でその思いはより大きく止められないほどに成長していました。
父が作った会社でどんなに頑張ってもこれが自分の力だとは認めてもらえない事を理解した僕は、何かに取り憑かれたように行動したんです。
気になった企業に電話して社長に会いに行ったり、謎に物件を探し回ったり、デタラメな事業計画を何度も父にたたきつけたりしていました。
「10年後も同じことをしているくらいなら死んだ方がマシだ」
当時の僕は周りにこんなことを言いまわるくらい取り憑かれていたんですね。
この頃僕は、父に何度も独立したい話をしては反対されていました。
もちろん勝手に独立することもできたのですが、妻に「家族も説得できない人が従業員を説得なんかできないよね」とめちゃくちゃ正論をさらっと言われて絶対に説得する道を選びました。
今考えると本当に何も考えず取り憑かれたように行動していた僕を、父は優しさから止めてくれていたのかもしれませんね。
そんなことを繰り返しているある日、父に癌がみつかりました。
胃を全摘出することになりましたが、手術は成功して今では本当に癌だったのかと疑うくらい元気なのですが、僕はその時初めて真剣に人の死と向き合いこんなことを考えました。
「人はいつか必ず死ぬ、このまま何もできずに終わりたくない」
そんな気持ちをもちながら、僕は今までよりも冷静に、真剣に父に独立したい気持ちを伝えました。
「圭祐が本気でやりたいならやってごらん」
そう言って父は僕の気持ちを受け入れ、独立することを認めてくれました。
親友との物語
家族を何とか説得した僕は、いきなり壁にぶち当たります。
勢いでとにかく突っ走っていた僕は、実際に何をやっていったらいいのか全くわからない状態だったのです。
しかし、僕にはとっておきの秘策があり、それは「親友をめちゃくちゃ頼る」という秘策でした。
僕は幸運なことに、親友がすでにフリーランスで成功していたので、その親友を頼り、しれっと一緒に事業計画を考え始めました。
そんな事業計画を考える日々の中で、親友からある日突然こんなことを言われます。
「俺は一体どういう立場で関わっていけばいいんだ?」
僕は心の中で本当は親友と一緒に起業したいという気持ちがありました。
しかし、その頃親友はすでに結婚して家も建てて子供もいて、フリーランスでも成功していて、自分の夢の為に巻き込むわけにはいかないと考えていました。
「ここからは一人でやっていこう」そんな思いで僕はその気持ちをそのまま伝えると意外な答えが返ってきました。
「俺は金なんかほしくない、お前が一緒にやりたいなら俺もやるよ」
親友は今ある成功を捨てて、僕と一緒に夢を追いかける道を選んでくれました。
2人での起業が決まり、社長は僕が務めることに決まりましたが、僕はあることを親友に約束しました。
それは、常に立場も報酬も必ず2人対等であることです。
会社が少し大きくなった今も、これから先もずっとその約束は変わることはありません。
2016年12月の終わり、後にサイボディを立ち上げる2人の経営者が静かに誕生しました。
はじめてお金を借りる物語
2017年4月17日、会社設立の手続きが全て受理され株式会社CYBODYが誕生しました。
2人しかいない会社の代表取締役に就任した僕の最初の仕事は融資を受ける事でした。
融資に関して調査をしていくと、創業融資に特化しているのが、国が運営している「日本政策金融公庫」ということがわかり、早速アポを取って相談に行くことになりました。
はじめてお金を借りるという事で、僕は非常に緊張していましたが、できる限り精いっぱい堂々と振る舞いました。
当時の僕ではかなりちんぷんかんぷんなこともたくさん言われましたが、わからない事には「すいません勉強不足で分かりません!」と堂々と胸を張って答えていました。
あらかじめ僕達はかなりの調査をして、かなりしっかりした事業計画書を用意していたため、非常に計画を褒めてくださり前向きに話が進んでいきました。
「融資って案外あっさり受けられるんだなぁ♪」と心の中で思っていましたが、担当者からこんなことを聞かれます。
「担保となる土地などはは用意していただけますか?」
「担保がないと融資は厳しいですか?」と聞くと「額が額なので創業融資となると厳しいかもしれません」といわれたので僕は「担保はもちろんあります!」と答えて、担保の情報を教えると前向きに話が進んでいきました。
はじめての融資面談が終わり、融資は前向きに進んでいくことになったのに、僕は頭を抱えていました。
それはなぜかというと、実はすでに奥さんに家を建てる約束をしていて、担保提供する土地は家を建てる予定の土地だったからです。
その話がどれくらい進んでいたかというと、家の図面や見積もりもすでにできていて、家を建てるために祖母の庭園や倉庫をぶっ壊して更地にしてあり、後はお金を借りて建てるだけ、数ヶ月後には憧れのマイホームという状態でした(笑)
当時僕達は祖母の古い家の二階に住ませてもらっていて、夏になればゴキブリやムカデが出るような環境だったので、キレイな家に住むことを奥さんは本当に楽しみにしていたんです。
しばらく言えずにいたのですが、ずっと隠してもおけないし話せばきっとわかってくれるだろうと、思い切って奥さんに家が建てられない話をしました。
その時の奥さんの反応はちょっと話せないくらいの内容だったので、詳しくは話せませんが確か離婚がどうちゃらこうちゃら…言っていたような記憶がかすかに残っています。
そこから数日間、地獄みたいな空気でしたが、怒れる奥様を何とかなだめて「ちゃんとしたアパートに引っ越すこと」と「数年後には必ず家を建てること」この2つを約束してなんとか許していただきました。
危うくジムを作る前に家庭をぶっ壊すところでしたが、普通ならあり得ない僕のわがままを許してくれた奥さんには本当に心から感謝しています。
こうして僕には「必ず成功させて家を奥さんにプレゼントする」という2つ目の目標を持つことになりました。
涙で土下座の物語
融資の相談を金融公庫と進めながら、同時に行っていたのが物件探しでした。
当時に僕達が探していた物件は、路面店、70坪以上、駐車場15台以上、家賃30万くらいというもので、今考えれば駐車場も全く足りないし、家賃もこんな家賃では好立地を抑えることはできないふざけた条件だったことを覚えています。
店舗出店に関しては本を何冊か読んで勉強していたので、路面店の好立地でなければならないという意識だけはしっかり持っていました。
物件を探し始めてすぐに僕達は物件探しの難しさに直面します。
まず難しさの1つ目に、条件に合う物件というのは非常に少ないという事でした。
70坪以上の居抜き物件自体がそもそも少なく、空いたとしてもすぐに埋まってしまうので、確保するのが非常に困難でした。
2つ目の難しさは、不動産屋は良い人ばかりではないという事です。
もちろん良い人もいらっしゃいましたが、感覚的には僕の会った不動産屋の98%は明らかに騙そうとしてきました。
どう考えてもずっと空いていて人が入らないところを紹介してきたり、明らかに他に問い合わせている人なんかいないのに「実は他にも問い合わせをいただいていて」と平気で嘘をついて煽ってきます。
物件探しでは大きな夢を持って船出しようとしている若者を、平気でカモにしようとしてくるたくさんの汚い大人と出会いました。
まだ実績も何もない僕達にはまともな物件なんて紹介してもらえない。
絶望感を胸に抱きながらも、僕達は必死に山梨県中を探し回りました。
そんな毎日を過ごしていたある日、昭和町で物件を探していると、数日前まであった店舗が閉店して清掃しているところを見つけました。
僕達は急いで車を停めて店舗に入り、管理会社を聞いて問い合わせると、まだ数日前に空いたばかりで次は決まっていないとのことでした。
後日この管理会社の代表をしている女社長と会うことになり、物件の条件を聞くと、80坪、駐車場15台、家賃30万で路面店でもあったので、完璧に当時求めていた物件条件をクリアしていました。
僕らはここしかないと思い急いで話をまとめようとしましたが、その物件には大きな障害がありました。
それは大家さんが24時間営業の店には貸したくないという意向があるということでした。
僕達は正直本当にそんなことあんのかよと思いましたが、せっかく見つけ出した物件を手放すわけにはいかないと思い、大家さんに直接話をさせていただくお願いをしました。
そのお願いを聞いてくださり、僕達は大家さんが仕事から帰る19時頃ご自宅に女社長と一緒に行くことになりました。
慣れないスーツに菓子折りをもってお邪魔し、慣れない正座で事業計画を見せながら熱く事業の説明を行いましたが、大家さんの態度は非常に冷たいものでした。
「近くにスポーツクラブもあるのに上手くいかないでしょ?」「実績もないのに何の根拠があるの?」「成功する気がしない」
数えきれないほどの批判的な意見を言われ、心の中では「お前なんかに一体何がわかるんだ」「なぜそんなに若者の夢を否定できるんだ」そんな悔しい気持ちでいっぱいでした。
それでも僕達は負けてはいけないと、人生で初めての土下座をしてお願いをしました。
しかし、大家さんの気持ちが変わることはなく、心をボロボロに引き裂かれた僕達は、帰りに居酒屋に寄り2人で酒を飲みました。
そこではお互いあまり言葉は出ず、代わりに自然と涙があふれました。
悪魔の女社長との物語
それからもずっと物件を探し続けましたが、物件が出てくることはありませんでした。
そんなある日、女社長から突然電話が入りました。
「河野さん!あの物件にOKが出ましたよ!」
突然の朗報に僕達は一瞬テンションが上がりましたが、条件の再確認をすると、30万だった家賃が40万という条件でした。
大家さんのうちにお邪魔した日から僕達は毎日その日の対応が本当に正しかったのか、熱くなりすぎて冷静さを欠いていたのではないかと何度も反省をし、自問自答を繰り返していました。
もちろん喉から手が出るほど物件が欲しかったですが、そんな反省の毎日を過ごす中で、僕達は非常に冷静に考えられるようになっていて、勇気をだして出した答えはこうでした。
「最初の条件の30万でなければ借りる気はありません」
その答えを聞いた女社長は電話越しでも伝わるくらい明らかに不機嫌になり、ダメかと思いましたが、返事は30万でも大丈夫ということでした。
物件が決まったと僕達は本当に喜び、これで夢に一歩近づいたと思いましたが、僕は女社長の電話越しの態度と、あまりにもあっさり30万でOKになったことが少し引っかかっていました。
それから約1ヶ月後、僕の不安は的中することになってしまいます。
融資の話も順調に進みちょうど融資がおりることが決まり、後は物件契約の連絡を待っているという状態のそんなある日、女社長から電話が入り信じられないことを言ってきました。
「あの物件やっぱり駄目になりました」
僕は信じられない内容に一瞬言葉が出ませんでしたが、もちろん猛抗議しましたが、女社長は淡々と少し僕らを馬鹿にしたように答えました。
「まだ契約もしてないですしなんの違反もしていませんよ」「家賃30万じゃ厳しかったですかねぇ」「融資がもう決まってる?私には関係ありません(笑)」
そんな女社長の態度を感じ、一度30万でOKしたのは僕達のような若造が生意気に条件を断った腹いせに痛い目を見せるためで、最初から30万で貸す気なんて無かったことを悟りました。
僕は心から自分の未熟さを呪い、大人の世界の醜さや怖さを痛感しました。
それと同時にこの経験は「死んでも成功させてやる」と、僕の成功への意思をさらに強固なものにしました。
響ヶ丘店との出会い物語
女社長事件からも、僕達はめげることなく物件を探し続け、甲斐市の響ヶ丘というところに条件に合う物件があることを知り、見に行くことにしました。
しかし、その物件はすでに塾が入っていて、またダメかと肩を落として周りを見渡すと、すぐ近くに空いている物件が目に飛び込んできました。
一応管理会社に問い合わせてみると、条件はクリアしている物件でしたが、実は僕達はこの時ぶっちゃけ甲斐市の事を何も知らなかったので、本当にここで出店していいのかよくわかっていませんでした。
いろいろ調査をして慎重に考えましたが、本当にいいのかどうかは最終的にはよくわかりませんでした。
しかし、このままだといつまで経ってもできないし、このままでは自分達の熱まで殺されてしまうと思い、思い切ってここで出店すると腹を決めました。
物件の契約の時には騙されたトラウマもあったので、びくびくしながらハンコを押したことを今でも覚えています。
後々調査と分析をしてみると、交差点で目立ち、商業施設内でメガチェーン店に囲まれていて、山梨で数少ない人口増加地域、家賃格安、地域性も穏やか、競合他社がほぼ無い、駐車場が数百台あるなど、控えめに言って完璧な条件だったとわかりました。
現在の目線で当時の女社長の物件を分析すると、恐らく駐車場台数や立地の関係で失敗していたと思います。
僕達は店名を決めるときに、「サイボディ」だけでも良かったのですが、どうせなら夢は大きく全国を目指そうと、複数展開を見据えて「サイボディ響ヶ丘店」にしました。
こうしてサイボディ響ヶ丘店のオープンが決まり、女社長に騙されたことも含め本当に奇跡だと、信じてもいない神様に初めて心から感謝しました。
運命のオープン物語
それから月日は流れて2017年11月3日、記念すべきオープンの日を迎えました。
オープン前日、何もわからない僕達は初日の会員目標を「50人きたら万々歳だよね!」と、50人に設定していました。
期待と不安でいっぱいのなか開店準備をしていると、オープン時間に近づくたびどんどん車が入ってきてオープン30分前には30人近い人がすでに待っていたので、少し早めに案内を始めました。
しかし、その後も一向に来客する人は止まらず、いつの間にかものすごい行列が周りの店舗の前まで続いている状態になっていました。
僕達はそこから必死に対応を行い、あまりの嬉しさと忙しさであまり細かいところは覚えていません。
プレオープン期間の1週間は朝5時に起きて夜中の12時過ぎまで作業を行い、とにかくがむしゃらにぶっ倒れるくらい僕達は働き続けました。
結局初日の目標は50人だったのが入会者250人、プレオープン期間終了時には入会者が400人近くになっていました。
プレオープン最終日、お客様が自由に店舗を使えるようになるのが、夜12時だったので僕達はお疲れ会を兼ねて近くの居酒屋で飲みながら、12時になったら本当に使われるのか見に行こうということになりました。
「本当に使ってくれるのかな?」「どうせ誰もいないだろうな、、」「何か問題があったらどうしよう、、」
そんな不安を話し、ドキドキしながら3人で店舗に向かいました。
裏口からこっそり入り防犯カメラの映像を見てみると、そこにはなんとたくさんのお客様がジムを使っている光景が飛び込んできました。
自分たちがゼロから作ったジムをお客様が本当に使ってくれている。
僕達は抱き合って大喜びし事務所で大騒ぎしました。
あの時の光景を僕は今でも鮮明に覚えていて、それからもいろんな経験をしましたが、今でもあの瞬間が僕の中での一番の思い出となっています。
こうして山梨初の24時間フィットネスクラブCYBODYは、多くの奇跡に恵まれて見事大成功を収めることになったのです。
まとめ物語
いかがでしたでしょうか、長くなってしまいましたが、これがサイボディ誕生の物語です。
サイボディは今では山梨県内に4店舗出店しFCでの出店にも成功していますが、親友との友情、家を諦めての担保、涙の土下座、悪魔の女社長など、いろいろな物語があって今のサイボディは存在しているんですね。
僕はこの起業の経験からあなたに伝えたいのは、諦めなければ必ず道は開けるという事です。
僕が途中であきらめていたら、この物語も存在しなかったし、あなたとも出会えていなかった。
周りの人に止められてやめていたら、土地を担保に入れずに諦めていたら、土下座をして諦めていたら、女社長に騙されて諦めていたら、僕は今どんな人生を歩んでいたでしょうか?
確かにあの瞬間は本当に辛かったし、逃げ出したい気持ちにもなりました。
それでも諦めずに挑戦し続けた結果、僕は今心から幸せだと胸を張って言える人生を送っています。
僕一人の苦しみが、親友との夢となり、その夢は今では多くの仲間と一緒に目指す大きな夢となっている、こんな幸せなことはないじゃないですか。
だからあなたにも、大きなことじゃなくてもいいから諦めずに挑戦してほしい。
僕は諦めずに挑戦し続けるあなたの夢を応援しています。
これからもあなたが豊かな人生を送れる事を心から願っています!
この記事へのコメントはありません。